猪名部氏は、元々の現住豪族と攝津国(兵庫県)の猪名川周辺から大和(奈良県)を経て、移住してきた豪族との融合豪族といわれる。第43代元明天皇の和銅6年(713年)勅命により、猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。 奈良の大仏「東大寺」は、第45代聖武天皇の天平17年(745年)8月から建立され、猪名部氏の猪名部百世が大工(棟梁)、飛騨の匠の益田縄手が少工(副棟梁)として完成した。
この世界最大の木工建築物は技術の粋を集めて建立され、その総指揮をとった猪名部氏が建築技術に優れ、宮中に仕えた名工として日本書紀にも登場し、実に著名であったことが判る。更に尚、世界最古の木造建築物「法隆寺」・「石山寺」・「興福寺」の建立にも携わった歴史がある。又、古墳の出土品から「飛鳥寺」建立にも携わっていることも伺える。
祭神伊香我色男命は、猪名部氏の祖神で、天孫瓊々杵尊の兄、饒速日命の六世の孫と記されている。当神社の創建時代は明らかでないが、延喜式内社(905年の延喜五年に、勅命により藤原時平が、当時の神社を延喜式神明帳に記載した神社)に列し、貞観元年(859年)第56代清和天皇の時代、神階従五位下に同八年従四位下をすでに授けられている。
同15年(873年)9月9日、天皇に仕えていた掌待、春澄朝臣高子が旅費として官稲千五百束を賜って氏神猪名部神社に奉納したことが三代実録に記され、よってそれ以来神社の諸祭儀は何れも九日と定められた。抑々この春澄朝臣高子は参議式部大輔(今の宮内庁長官)従二位善縄卿の長女である。善縄卿は猪名部造で、員弁少領財麿の息、大目豊雄の子である。
善縄は、京都に上がり春澄宿称、跡に朝臣を賜り、貞観12年2月7日(870年)、74歳で薨去されている。その一代の事歴の中で特筆すべきことは、文学博士となって清和、仁明、文徳の三朝に仕えて御進講に従事し、或は大学に諸生を訓育し、更に勅を奉じて内裏式及び「続日本後記」二十巻を著わされたことである。今を去る千百余年の昔、この員弁の谷より出て、文学を似て身を立て、宮中に進講して勅撰の歴史を編纂し、
その高名を広く日本の歴史に留められた偉業は郷土史上の一大異彩である。その子孫の中、鎌倉時代員弁大領であった員弁家綱、その子員弁郡司進士三郎行綱があるが、特に行綱は東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意に従って、青少年の士気を鼓舞せんがため建久3年(1192年)追野原に於いて流鏑馬の神事を奉納し、以来“大社祭”としてその伝統と歴史を誇りつつ全国的に二ケ所しかない珍しい祭礼として報ぜられている。
全国に於いて、最も古墳の多い神社として著名で、神社境内にある一大古墳は猪名部氏の墓で、散在した17の墳墓の内最大のもの(6世紀)である。現在、高塚大神と記された陵頭の数々の石は、総て散在した墓の蓋石である。老松、古柏が鬱蒼として茂り、本殿、境内社、薬師如来、閻魔堂と共に氏子崇敬者を始め郷党の斉しく敬慕するところである。之を要するに当神社は遠く猪名部氏の祖・伊香我色男命を主神とし、親から子、子から孫へと続く氏子、氏族、崇敬者の先祖を合せて奉祀する総社である。特に、日本の歴史に明記される建築技術の神、学問、器用さを与える最も由緒尊い神社として、敬神壮年会、敬神婦人会、敬神青年会の活動も加えて、将来愈々脚光をあびて神徳益々光を放つであろう。
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